幕末の往還 浦賀みちを歩く
「浦賀みち」とは、江戸から浦賀へと至る東海道の脇往還(街道)の事です。
今回は、逗子海岸に臨む小坪村(逗子新宿)の継立場から、「名越坂」を経由して、次の継立場・雪ノ下村(鎌倉)に向かうコースです。
総距離:約6㎞
- 所要時間
- 3時間
- 主な交通手段
- 徒歩
スタート JR逗子駅東口
- 住所
- 神奈川県逗子市逗子1丁目
東郷橋
瀟洒(しょうしゃ)な住宅街と重厚な外観の東郷橋が四季折々の風物を楽しませてくれます。近くにはお洒落なカフェもあります。
日本軍の東郷平八郎元帥(とうごうへいはちろうげんすい)が日露戦争でロシアのバルチック艦隊を打ち破った翌年に逗子にあった彼の別荘を訪れた際、逗子市民が凱旋を祝って別荘近くの川間橋は東郷橋と改名されました。その後架け替えられた東郷橋は「かながわ橋100選」にも選ばれています。閑静な住宅街に流れる久木川(川間川)に架かるこの橋はノスタルジックで重厚な外観が美しいです。
会所跡
会所跡(継立場)
ここ(新宿)は江戸時代には小坪村に属しており、村の名主で披露山に本家がある高橋氏の分家が近村の名主たちの「会所」(寄合所)となっていました。小坪の継立場(人足や馬の中継所)はこの辺りにあったようです。
- 住所
- 神奈川県逗子市新宿2丁目
久木新道
久木新道
この広い道路の前身は、大正の初めに横須賀の軍港に向かう送水管を埋設した「水道みち」で、このすぐ先に送水管専用のトンネルがあり、人車は通れませんでした。
昭和30年代に切通になって拡幅され、一般車両が通る「新道」となったのです。
- 住所
- 神奈川県逗子市久木4丁目
名越切通
「久木新道」バス停脇の道を上っていきます。第一切通までの急坂です。亀が岡団地造成工事で昔の面影はありませんが、平均勾配は「浦賀みち」時代とかわりません。
急坂を上り切ると第一切通です。
まんだら堂やぐら群
中世鎌倉の幻想的な集団墓地
限定公開!令和6年10月19日(土曜日)~12月16日(日曜日) 午前10時~午後3時(土・日・月・祝日のみ)
「まんだらどう」の名が確認できる最も古い文献は、文禄三年(1594年)の検地帳です。しかし、そこには畠の地名として記されているのみで、まんだら堂がどんな建物だったのか、いつまで残っていたのかなど、詳しいことは全くわかっていません。まんだら堂やぐら群は、一つひとつは2m四方程度と小規模で構造も単純なものが多いですが、150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、これだけまとまったやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重です。やぐらの中に並ぶ五輪塔は、後の時代に動かされているものが多いので、中世の姿そのままとは言えませんが、供養するために建てられたものです。祀られたのは、武士や僧侶が多かったと考えられていますが、経済力を蓄えた商工業関係者なども含まれていたでしょう。
安国論寺
安国論寺
1253年、日蓮は再び鎌倉に来て松葉が谷の草庵に住み、引き続く天変地異は既存の宗派のなせる業として指揮する一方「立正安国論」を著して、執権・北条時頼に上呈すると共に街頭に立って、法華経の正しい解釈を広めました。(日蓮辻説法)
「草庵」とされるのは安国論寺のほか、妙法寺、長勝寺の説もあります。
- 住所
- 神奈川県鎌倉市大町4-4-18
長興山妙本寺
長興山妙本寺
日蓮宗1203年。病弱な第2代将軍源頼家の後任選びで、頼家の長男・一幡を推す比企能本(能員の末子、当時2歳)が、後年先祖の菩提を弔って、比企氏の館跡に建てたのがこの妙本寺です。山号寺号は両親の法号です。今、この谷を「比企が谷」といいます。
- 住所
- 神奈川県鎌倉市大町1-15-1
本覚寺
- 住所
- 神奈川鎌倉市小町1-12-12
ゴール 鎌倉駅東口
鎌倉駅東口
- 住所
- 神奈川県鎌倉市小町1-1-1